日本人の体質に合う学校教育の姿 ~上原輝男先生 語録より~
駿煌会ネーム 虚空(フリースクール支援員 兼 就労支援施設グループワーク講師 兼 家庭教師)
上原先生が平成8年に他界されて30年目の命日
以下に収録している先生の言葉はどれも30年以上前に話されていた言葉ということになります。
ではその後、この国の教育はどのように推移し、現状はどうなっているのか?
学校教育は曲がり角 という言葉も随分と前から聞かれますが、曲がった先の方向性を完全に見失っているかのように見えてしまいます。
先生の言葉を読み返すと、現代にこそ大切なメッセージ、折口信夫先生風にいえば 生命の指標(らいふいんできす)であると感じます。
弟子だからということではなく、古代日本人からの大きな流れ という視点から、方向性を探るという点で。
*「小学校」に関することが中心ではありますが、小学校段階で大切なことが欠落している現代の教育体制です。
土台である 初等教育 がしっかりと行われていなければ、その後の中等教育以降・生涯教育すべてが不安定になり、歪んでしまうのは当然のことです。
小手先の解決方法 というのではなく、根本的に見直し、改善していくためには、初等教育を終えた以降のどの年齢であっても、初等教育段階で本来きちんと獲得しておくべきことを補っていく必要があります。
もちろんそれはテスト対策的な 知識・技能等々 を学び直す、というのではなく、そうした教材を通して本来獲得が期待されていた人間の内面にかかわる事柄についてです。
そんな 本来の事柄 を、先生の語録を通して再確認して頂けると幸いです。
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人間は「自分を動かしているこの意識は死後どこへ行くのか?」と考え続けてきた。肉体没後も残る精神力を問題にした。
死後の想定を否定する科学は万能ではない。現代の世界観は昔の三分の一
もう一度、この世が『忘れかけているもの』『忘れてしまったもの』を見つけなければならない。それは我々が見落としている『あの世からの信号』をみつけることです。
寺やお宮の役目はこれなんだよ。ただの宗教研究所ではない。
学校もこの意識でやらなければ・・・。
昔の感覚では、この世は『仮の世』。 『真実』があの世。
高野山、比叡山などの寺は、この世に『あの世』を作ろうとしている。決して『寺』を作りたかったのではなく『別世界』が作りたかった。聖地・聖域はこの世であってこの世でない場所なんだよ。
小原先生が玉川を作った時の意識もこれだよ。
『一つの世界』を作ろうとしたんだ。だから『夢の学校』って言ったんでしょ。別世界だ。昔はこういうのが学校の当然の意識だったんです。
(昭和59年度 国文学 ノートからの起こし)
子どもっていうのはやっぱり霊的存在だと思っているんだ。・・・無意識が霊的存在と関わりを持つと。
今日の学校教育と言おうか、学校の常識は現実性を問題にしている。だから子どもはつかまえられない。だから楽しくない。
もっと学校社会の中に霊的なものが入り込んでくれば、子どもはもっと生き生きとすると思うよ。霊的って言葉はよくないかもしれないけどね。
(平成七年合宿)
小学校で何としてもやらなくちゃならないものがあるとしたら、それは必ず子どもの生き様の中に発見されて当たり前だ、という考えを僕はしているってことですね。・・・
八教科あるからそれを何とかやっとれば何とか済んでいる、なんていう甘い考え方じゃいけないんで、むしろ教科っていうのを僕はもう一度考え直さなきゃいけないと思う。
あの教科で一体どれだけの事が人間成長に役立つのか、人間の作り上げていった科学にどれだけ順応しているのか、そういう考えを少なくとも中学校の先生方は知識体系を片方に持っていて、そしてそれでやるわけだから、また中学校の段階だからそれでいいと思うけれど、小学校だけはもっと人間を探さなきゃいけないと思う。
人間の成長の在り方というものを探す事に喜びを感じなくちゃ。それが一番楽しい事だと思うのね。人間はかくして大人に近付いていくんだ、っていうようなところを探してやる、っていう。そういうことが一番大切な事だと思う。 (昭和六十二年合宿)
『人間の精神の遍歴』っていう、それの原則的な物が小学校のカリキュラムの中に入ってこなくちゃウソだって言ったろ。
だけれども中学校課程になるとこんな事言ってられないのよ、やっぱり。この世の中で生きていく為に沢山の事を覚えていかなくちゃいけない。教えとかなくちゃいかん、ということになるからね。知識体系がバーッと出てくるに決まっているんですよ。
ところが小学校はそんなことしなくてもいいと僕は思っている。それよりも『人間としての形・心』そういうものをきちっと押さえてやる。
だから、こんなに素晴らしい職場っていうか仕事っていうのはないんだから。・・・
まあ、小学校と中学校では線を分けよう。線を切らなきゃ。 (平成四年合宿)
学校に「うち」を持ち込めばいいんだよ。それを持ち込めない子が意識は外のままだから、教室で発言できない。 (平成二年九月例会)
『日本人の家感覚』を学校に入れていけばいいんだよ。特に小学校では人為的に父親像の校長さんを入れて・・・ (平成七年五月例会)
小学校教育は『子どもにふるさとを与える』ことです。勉強を教えるだけではないんです。塾なんかの商売人では出来ない『人間づくり』をするのが小学校なんです。 (昭和58年度 国語教材 講義)
小学校教育は『ナマ』でなくちゃダメなんだよ。ナマでないと日常性から離れてるって事なんだから。・・・子どもはナマなんだもの。生き物なんだからね。 (平成三年合宿)
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この最後の ナマ の問題。
個々人のナマと、教育内容が解離しすぎているということです。
昭和の後期、「生きた学力」「生きる力につながる教育」と盛んに叫ばれ、教育の姿勢を変えようと盛んに言われた時期もありました。
しかしやがて平成になり、競争原理・成果主義ということが、テストの点数比較にばかり特化してしまいました。それがますます生涯にわたっての深刻な問題をひきおこしているように思います。
ここ数年、私が家庭教師やフリースクールで関わっている世代は、人間教育で大事な転換期である10歳前後の時期にコロナがぶつかってしまいました。それだけに、特に感受性が豊かであったり、自分の内なる声に素直である児童・生徒ほど、苦しみ、学校などに居場所がなくなってしまっています。
現代社会では大人だって次々と突きつけられる「現実対応」ばかりの日常の中、それぞれのナマが置き去りにされている感覚が「生きにくさ」「生きる気力の低下」「疎外感」・・・等々につながっているじゃないですか。
現実対応能力の育成 の名のもとに小学校段階で英語教育や極端な場合は株取引などの金融教育がどんどん入ってきています。それで果たして本当に 現実への壁への耐性や突破する力が伸びているのか?
私には、ますます低下しているようにしかみえません。ストレスへの耐性が極端に低下している姿をみても明らかです。
最後に「イメージ」に関しての先生の言葉を紹介して稿を閉じたいと思います。
(ここでいう イメージ とは、一般的な 何かを思いうかべる という意味ではありません。
活力・生命力のエネルギーを示しているとお考え下さい)
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現実いっぱいの子ども逹は「壁にぶつかった」そうしたらこの壁を抜けないですよ。
だけどイメージ力のあるやつは突き抜けていく。現実の時間・空間とは違う世界に入っていけるんですよ。『ああ、この子は新しいイメージの世界に入ったんだ』と、これでいいんですよ。
・・・だから人間ってやつはいつでも時間・空間の継続と裁断を行いながらイメージを展開させているわけ。 (平成七年合宿)
現代の子どもを救う唯一の道はイメージ。子どもはこの中でのみいきている。
現代っ子は漫画とファミコンという夢の世界に逃げ込んでいる。
子どもの行動はイメージが働かなければない。イメージは想像した結果ではなく想像力なんだ。
(平成七年二月例会)